インターネット上でマクロビオティックに関する話題が出ていると興味深く見ているが、そのとき、面白いなあと思う言葉がある。
「邪食」だ。
「マクロビオティック的ではない、マクロビオティックでは許されていない食事」を指して「邪食」と表現されていることが多いように思う。たとえばファーストフードや市販の砂糖入り菓子など。
そう言われてみれば、桜沢如一氏の本でも一度くらいは「邪食」という表現にお目にかかったことがある。
だが、桜沢氏が主張したいのは「邪食をするな」ということではないし、マクロビオティックの眼目もそこにはないから、私個人はあまり気にしたことがなかった。邪食? へえ、ひどい言いようだね……と笑ってしまうような感じ。
けれど「邪食」という言葉をとても気にして、それを食べてしまったときに罪悪感を覚え、特定の食品を「邪食」と断罪するマクロビオティックに嫌悪感を抱いている人がマクロビオティック実践者の中にいることを知り、考えてしまった。
そういう人たちは決まって真面目で、マクロビオティックのルールを忠実に守ろうとする努力家だ。自分の欲求を押し殺して、必死にマクロビオティックに従おうとするあまりに、好きなものを食べられない苛立ちをマクロビオティックにぶつけてしまうのだろう。
そうやってマクロビオティックに疲れてしまう人たちの共通点として、「マクロビオティックの食事」が「普通の食事」とは別ものであると考えていることが挙げられる。
ここが私にはよくわからないのだが、「普通の食」と「マクロビオティックの食」に何か違いがあるだろうか? 私にとっては同じだ。
動物性食品がない? いや、別に禁じられているわけではないから、食べたければ食べればいいんじゃない?
砂糖が食べられない? 食べられないということはないよ。食べなくても平気でいられるから食べていないだけで。もし外食で照り焼きなんかが出れば白砂糖が使われているのが想像できるけれど、そういうときは食べちゃうよ。
玄米玄米うるさい? 玄米が一番栄養的に効率が良くて楽というだけで、白米が食べたければ食べればいいと思うよ。誰も、個人の嗜好にまでは口出しできない。
食べたければ食べたっていい。どうせ人間は肉体という「陽」をまとっているから、欲望を完全に制御することはできない。そういう開き直りの元に、それでもなるべく体にとって自然なものを自主的に選んで食べようとするのがマクロビオティックであって、決して誰かが何かを強制するようなものではない。
もし息苦しさを感じるのであれば、それは自分で自分を縛っているだけだ。
そんな時期は私にもあった。
私は、いわゆる「体にあまり良くないもの」を「邪食」だなんて呼ばない。桜沢氏がそう呼ぼうとも、私自身のポリシーとして呼ばない。
だって、「邪食」なんて呼んでしまったら、もうそれを食べられなくなってしまうではないか。ファーストフードだろうが砂糖入りの菓子だろうが、食べる自由を自分に残したいから、私はどんなものも「邪食」とは呼ばないと決めている。
「邪食」呼ばわりにイライラするなら、「邪食」というネーミングを拒めばいい。
「普通の食」と「マクロビオティックの食」が違うと感じるなら、両者を近づける工夫をしてみたらいい。
桜沢氏は、お母様やご兄弟を西洋風の食事が原因の病気によって早くに亡くされており、そんな辛い思いをする人がもう出ないように、食べ物に関しての助言が過ぎるだけなのだ。おせっかいと思えるほどに。
だから、マクロビオティックのアドバイスはありがたく拝聴しながらも、それを全部実行しなければいけないなんてことはない。自分には合わないな、と感じる部分があれば「はいはい」と聞き流せば良いのだ。
「邪食」なんて言葉にあまりピリピリせずに。自分のために、自分に合った方法を模索しながら、「マクロビオティックの食」を「普通の食」として実行していけたなら、きっとすべてが円満におさまるに違いない。
気を楽に持とうなんて言って楽になるものでもないが、試行錯誤しているうちには道が開けてくる。
世のマクロビオティック実践仲間たちよ、まあそう焦らずにいこうではないか。マクロビオティックを指針にしながら健康を長持ちさせて、楽しい人生を歩もうではないか。
2012.12.04追記:
上記、威勢の良いことを言いながら、私も実はマクロビオティックのルールに縛られていた一人だったのだということが、マクロビオティック実践の果てに病気になってわかった。
2009年9月にマクロビオティックを卒業した私は、その後自分だけの健康道に入り、自分だけの健康法として『玄米・ごぼう汁基本食健康法』を開発し、現在はそれを実践している。
皆さんが「自分だけの健康法」を見つけるためのヒントとして参考にしていただければ幸いである。↓