私はマクロビオティック実践において、かなり高い理想を掲げていた。
憧れていたのだ。厳格なマクロビオティックに。
マクロビオティックを始める前から、私は僧侶の食事の雰囲気を「いいなあ~」と思っていた。テレビで、永平寺の朝食の様子を見たときもうっとりしてしまった。
お粥と、たくわんを2~3きれ……。音も立てず、粛々と口に運んでいく。いかにも美味しそうだし、カッコよかった!
ストイックな感じがいい。切れ者という風情をただよわせている。
私はマクロビオティックの食事を僧侶の食事と重ねた。精進料理がマクロビオティックのルーツなのだから、同一視したくなるのも道理と言えば道理。
だがマクロビオティックを"ストイックな僧侶の食事"としてとらえてしまったことが、のちのちの苦しみを生んだと思う。
自分で自分を縛る
マクロビオティックでは何も禁止されていない。自分の体を自分で見極め、判断した結果、「食べて良い」となったなら肉だろうが魚だろうがOK。
そうはわかっていても、私はマクロビオティック完璧主義者だった。ストイックなマクロビオティックが至高だと心のどこかで思っているゆえに、「本当は食べちゃだめなんだ、なのに食べようとしている。あ~これじゃあナマグサ坊主だ~」と苦しくなる。
僧侶であるならば、戒律は守るべきだ。ナマグサ坊主なんていやだ。それで仏に仕えている身と胸を張れるのか。
いや、別に私は僧侶じゃないし、仏に仕えてもいないのだが、そういう気分だったのだ。
きっと前世のどこかで僧侶だったに違いない……。
だから、もうやめるしかなかった。自由な食を楽しむには、僧侶のままでいられない。僧侶の尊厳を傷つけるわけにはいかない!(いや、だから僧侶じゃないんだけど……)
厳しいマクロビオティックが好き
マクロビオティックは、私にとっては厳しいものだった。
肉を食べるにしても、砂糖を食べるにしても、「今日肉を食べるのは、外気温が-15℃で極陰性であり、極陽である肉を食べてもバランスが崩れにくいと判断したため」とかなんとか、もっともらしい理屈をつけなければ許されない気がしていた。
それが窮屈になってしまったのだった。
桜沢如一氏に基本の教えを受けたから、マクロビオティックは厳格なものだというイメージを抱くに至ったのかもしれない。
だが私は今でも、マクロビオティックは厳格なものが好きだ。無骨で素朴な、研ぎ澄まされたマクロビオティックの形が一番好きだ。
ストイック、万歳! ナマグサ坊主なんて坊主じゃない!
そうやって自分を追い込むようなマクロビオティックを続けたからこそ、速やかにマクロビオティックのコツを会得し、早いうちに「自分だけの健康道」に至れたのだと思う。
【マクロビオティック卒業後の食事法について】
追記:その後、マクロビオティックを卒業し、自分オリジナルの健康道に移行しました。↓
↑「玄米・ごぼう汁基本食」を食べたらあとは何を食べても自由という食事法です。