マクロビオティックコラム

マクロビオティックをやめるということの意味

マクロビオティックをやっている、やっていないの区別はどこでつければいいのか。

答えは単純。本人が「これはマクロビオティックだ」と思っていればマクロビオティックだし、「これはマクロビオティックではない」と思っていればマクロビオティックではないのだ。

たとえば、マクロビオティックのマの字も知らずに、玄米ご飯と野菜のおかずで日々暮らしている人がいるとする。

マクロビオティックを知っている人から見れば「マクロビオティック的だなあ」と思える食事内容だが、本人にその 意識がない以上はマクロビオティックではない。

ジャンクフードやアイスクリームを食べながらも、「これも一つのマクロビオティックだ」と思っている人がいるとする。

これは、マクロビオティックの厳格な原則からは外れるものであるが、本人がマクロビオティックと思っているのならばマクロビオティックだ。

では、"マクロビオティックをやっていた"人が、"マクロビオティックをやめる"とはどういうことか?

玄米を白米に変えることでも、肉や魚を頻繁に食べるようになることでもない。

「私はマクロビオティック実践者ではない」と自分自身に宣言することなのだ。

それだけでいい。

私はかつて、マクロビオティック実践者だった人が「マクロビオティックをやめる」と言うのを聞いて、その意味がいまいちよくわからずにいた。

やめるといっても、理論や実践法は記憶に残るだろうし、だったら少なからず生涯マクロビオティックの影響が食生活に残っていくのではないか。

意識せずとも影響が残るのなら、マクロビオティックをやめたとは言えないのでは。そう思っていた。

だが、今はわかる。マクロビオティックをやめるというのは、食生活の問題なのではなく、自分の心の問題なのだということが。

「やめる」と決めたら、すでにその人はマクロビオティック圏外なのだ。

たとえおにぎりの具に鉄火味噌を入れ、食後に三年番茶を飲むのだとしても、マクロビオティック実践者ではない。

それまでは「マクロビオティックの原則に合致している」という理由で光り輝いていた玄米から、光の輪が消える。

光の輪が消えようとも玄米を選ぶとき、そこにはマクロビオティックとは関係のない"自分の意思"がある。

自分の意思で食を選んでゆくのだ。その結果として"玄米ご飯と野菜のおかず"になったとしても、それはもうマクロビオティックではないのだ。

「自分はマクロビオティックをやっていない」という前提があるからだ。

私は今、この「マクロビオティック実践者ではない」という立場を取った上で健康的な食生活を送ることの自由を楽しんでいる。

マクロビオティックをやめられるくらい成長できた自分を、心強く思う。


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